日本の銅鉱山(銅山)一覧
銅は昔から需要が高い金属で、現在の製品・インフラなどにも重要な役割を果たしています。銅の主な用途としては、電線材が60%、配管・屋根材が20%、産業機械が15%、銅を含む合金(真鍮や砲金など)が5%として使用されています。
銅山とは?
銅鉱山(銅山)は、銅鉱石を採掘することが可能な山の事です。
日本では輸入銅のシェアにおされ、現在では全ての銅山は閉山しています。
1994年3月に日本で操業していた銅山は完全に無くなり、亜鉛鉱山・鉛鉱山の副産物として少量の銅が生産されていましたが、亜鉛鉱山・鉛鉱山も2006年で日本国内は全て無くなりました。
日本を代表する銅鉱山8選
日本における銅山は現在では全て閉山していますが、廃坑になった銅山についても、坑道からの排水の浄化などの汚染対策が行われています。
また、亜硫酸ガスによって植生が破壊されたことから、傾斜面の崩落が続く被害が引き続き発生していると言われています。
足尾銅山(あしおどうざん)
足尾銅山は、栃木県上都賀郡足尾町(現在の日光市足尾地区)にあった銅山(銅の鉱山)です
「足尾銅山跡」として国の史跡に指定されている。
明治期には亜砒酸も産出し、精錬の副産物として硫酸も生産していた。
足尾銅山の歴史(1550年発見~1610年開山~1973年閉山)
足尾銅山は1550年(天文19年)に発見と伝えられている。1610年(慶長15年)、百姓2人が鉱床を発見し、江戸幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されることになった。足尾に幕府は鋳銭座を設け、銅山は大いに栄え、足尾の町は「足尾千軒」と言われる発展を見せた。
当時の代表的な通貨である寛永通宝が鋳造されたこともある。江戸時代にはピーク時で年間1,200トンもの銅を産出していた。その後、一時は採掘量が極度に減少し、幕末から明治初期にかけてはほぼ閉山状態となっていた。
足尾銅山の公害
周辺の山々の森林では、鉱毒(亜硫酸ガス)による直接的な被害のほか、坑木を調達するための伐採、人口が増えたことによる山火事の発生、生活に必要な薪炭確保のための伐採などが行われたため荒廃が深刻化し、一部は自然回復が不能なはげ山と化した。
これら森林を復旧するために国や県は、21世紀に入ってもなお治山事業による復旧を続けている。
Wikipediaリンク:足尾鉱毒事件
足尾銅山の坑口
本山坑(有木坑)、小滝坑、通洞坑の3つの坑口があった。本山坑から小滝坑はほぼ一直線に繋がっており、通洞坑はこの太い坑道に横から接続する形になっている。
このため、3つの坑口を結ぶ坑道は、T字型になっています。
小滝坑は1954年(昭和29年)閉鎖。最後まで使われていたのは本山坑と通洞坑であった。より正確には、本山坑と有木坑は微妙に場所が違い、これ以外に近くに本口坑があった。通常はこの3つの坑口がまとめて「本山坑」と呼ばれる。
別子銅山(べっしどうざん)
別子銅山(べっしどうざん)は、愛媛県新居浜市の山麓部にあった銅山。1690年(元禄3年)に発見され、翌年から1973年(昭和48年)までの282年間に約70万トンの銅を産出し、日本の貿易や近代化に寄与した。
一貫して住友家が経営し(閉山時は住友金属鉱山)、関連事業を興すことで発展を続け、住友が日本を代表する巨大財閥となる礎となった。
別子銅山の歴史(1691年採掘開始~1973年閉山)
1691年から採鉱がはじまり、最初の採鉱は海抜1,000メートル以上の険しい山中(旧別子山村)であったが、時代と共にその中心は新居浜市側へ移り、それにつれて山の様相も変化していった。坑道は全長700キロメートル、また最深部は海抜マイナス1,000メートルにもおよび、日本で人間が到達した最深部である。
別子銅山の特徴
別子銅山は、その種類・時代・地域の多様さ、広さにおいて、貴重な鉱業遺跡群を形成している。
別子銅山から発展してきた新居浜市には、鉱石の採掘から、精錬、関連して発生した化学工業、機械工業など、また工場・鉱業所だけでなく、社宅など生活の場も含めて、幅広い産業遺構群が現存し、一部は現在も用いられています。
足尾銅山の現在
別子鉱山を記念するシンボル施設として、新居浜市により端出場地区に「マイントピア別子」が整備され、ここから県道を約5kmさらに険しい山道5.5kmの東平へは、ガイド付きの観光バスが用意されている。なお、端出場地区に所在した採鉱本部などの建屋はそのほとんどが取り壊されている。
八総銅山(やそうどうざん)
江戸時代末期にすでに採掘の記録があり、1876年(明治9年)の文部省による国内鉱物資源調査報告書「各府県金石試験記」にも記載されている。銅・鉛・亜鉛・硫化鉄を産出した。
八総銅山の歴史(1876年~1970年閉山)
明治にはいってから地元住民が採掘を始めるが採算がとれず、古河財閥創始者の古河市兵衛が鉱業権を取得した。古河は前後して入手した足尾銅山で大成功をおさめたことから、八総鉱山の開発に本格的に着手することはなかった。
1906年(明治39年)に池上仲三郎が鉱業権を譲り受け、鉱山開発を行い、1919年(大正8年)の休山まで採掘、製錬を行った。1928年(昭和3年)久原鉱業に採掘権が移り、1933年(昭和8年)日本鉱業が所有し、日満鉱業の経営を経て、1946年(昭和21年)に休山した。
八総銅山の現在
金属鉱業等鉱害対策特別措置法に基づいて指定鉱害防止事業機関が鉱害防止業務を実施している。現在、現地には、選鉱場跡地に稼動中の中和処理場があり、通洞坑跡、鉱滓沈殿池跡、選鉱機械の基礎コンクリート跡等が残る。コンクリート擁壁で整備された採鉱用の道路は、荒海山への登山道に利用され、小学校跡地はオートキャンプ場になっている。
尾小銅山(おごやどうざん)
尾小屋鉱山(おごやこうざん)とは、かつて石川県小松市尾小屋町に存在していた銅山です。
尾小銅山の歴史(1880年操業~1962年閉山)
試験的に金の採掘がなされてきたが、1682年(天和2年)頃に金山として金が採掘されたことが文献に残っている。その後廃山となる。 1704年-1710年(宝永年間)に再び金の採掘が行われたものの、金山としては品位が低く、盛業にはいたらなかった。この頃から地元の村人が副業として採掘する程度の規模で、徐々に衰退していった。
尾小銅山の特徴
鉱夫の出身は松任市(現白山市)や辰口町(現能美市)から大聖寺や山中(いずれも現加賀市)にいたるまで、広範囲にわたる。
「当時は尾小屋の街だけが小松の山に明るく輝き、尾小屋の街の姿が辰口からくっきり見えた。」と話す人もいる。
鉱山操業最盛期には、尾小屋の人口は最大5,000人を数えた時期もあり、銀座と言われた商店街、劇場、映画館、パチンコ屋、鉱山病院などの施設があり、一大鉱山街を形成していた。
「嫁にやるなら尾小屋へやらんせ、金が天から地から湧く」と唄われた俗謡がある。
尾小銅山の現在
全長160kmあった坑道の多くは閉山時に埋没処理を施され、製錬所や選鉱場、鉱山住宅などの付帯施設も完全に撤去された。
鉱煙被害により、製錬所周辺の山は樹木や草が枯死して岩石が露出した荒涼たる風景が広がっていたが、昭和47年に石川県による緑化事業が開始され、岩を爆破し、その後に土で覆い、植物の種子を散布するなどの作業を進めた結果、現在では樹木が生い茂り、野生動物も多く生息する野山へと生まれ変わった。山域一帯の道は散策道(尾小屋プロムナード)となり、大倉岳への登山コースにもなっている。
吹屋銅山(ふきやどうざん)
吹屋(ふきや)は、岡山県高梁市成羽町にある地区である。金属を精錬・鋳造する職業や職人、およびその細工場を吹屋と呼ばれていた。
石州瓦とベンガラ漆喰壁の赤い町並みで知られ、歴史的町並みの残る6.4ヘクタールの範囲が重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。
吹屋銅山の歴史(807年開坑~1931年銅山が閉山)
元は1955年(昭和30年)まで存在した川上郡吹屋町(現在の高梁市成羽町吹屋・同坂本・同中野)であり、標高550mの高原地帯に位置する。
江戸時代中期頃より、幕領地として吹屋銅山を中心とする鉱山町へと発展した。幕末頃から明治時代にかけては、銅鉱とともに硫化鉄鉱石を酸化・還元させて人造的に製造したベンガラ(酸化第二鉄)における日本唯一の巨大産地として繁栄を極めた。主に美術工芸用の磁器の絵付け・漆器、神社仏閣のベンガラ外壁塗装に多用された。最盛期には銅山で働く従業員数が1200人にのぼる。山間に忽然と存在する吹屋集落のベンガラ格子と石州瓦による赤褐色の重厚な商家の町並みが昔日の繁栄を象徴している。
吹屋銅山の特徴
標高550mに位置する町であり、その立地上の関係から周囲に娯楽施設などは一切無い。商店や飲食店は在るが、店舗数は数えるほどしかなく、生活用品や食料など、纏まった量の買い物をする場合はバスでや自家用車などで約一時間かけてJR伯備線の備中高梁駅周辺まで出る必要がある。
吹屋銅山の現在
吹屋集落では、町並保存地区や中野地区、坂本地区、下谷地区は、1974年(昭和49年)に岡山県の「ふるさと村」に指定された。また、1977年(昭和52年)には岡山県下初の国の重要伝統的建造物群保存地区として選定され、現在は周遊型観光ができる産業遺産である。
各観光施設が点在しており、駐車場スペースが広く、待ち時間もなく、自然を楽しみながらゆったりと見学できるのが特徴。里山の固有の文化が残る大変貴重な美集落である。
備中神楽や渡り拍子など伝統的祭事にも保存伝承に力を入れ、日本最古の木造小学校・吹屋小学校がある。
日立銅山(ひたちどうざん)
日立鉱山(ひたちこうざん)は茨城県日立市にあった鉱山で、主に銅と硫化鉄鉱を産出した。1905年(明治38年)以前は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山であったが、同年久原房之助が経営に乗り出し、日立鉱山と改名され本格的な開発が開始された。
日立銅山の歴史(1625年採掘開始~1981年閉山)
常陸の戦国大名であった佐竹氏は、16世紀末には常陸の統一をほぼ成し遂げ、領内の鉱山開発を進めた。
1592年(文禄元年)の文書には、現日立市内の大久保で金を採掘した記録が残っている。
大久保の金山は佐竹領内でも主要金山であったと考えられており、日立鉱山の前身に当たる赤沢鉱山でも16世紀末から金の採掘を開始したとの説がある。これは日立鉱山の赤沢鉱床に佐竹坑と呼ばれる坑道が残っていることや、大久保という地名は16世紀の末頃、かなりの広さを持った地域を指していたと推定されることなどから唱えられている説である。
日立銅山の特徴
日立鉱山の鉱床はキースラーガー(層状含銅硫化鉄鉱床)で、日本国内のキースラーガーでは別子銅山、柵原鉱山とともに大規模な鉱床として知られている。
キースラーガーとは、大陸縁海や背孤で熱水が海底に流出することにより、塩基性ないし中性の火山岩とともに層状ないしレンズ状の鉱床を形成するタイプの鉱床で、日立鉱山の場合、島孤の背孤海盆の拡大時に発生した珪長質ないし安山岩質の火山活動に伴う熱水溶液によって形成されたと考えられている。
日立銅山の現在
日立鉱山は、鉱工業都市日立の発展とともに京浜地区に近い特性を生かして金属の供給源として重工業の発展に貢献したことが評価され、2007年(平成19年)に経済産業省が認定した、近代化産業遺産群33の中の「京浜工業地帯の重工業化と地域の経済発展を支えた常磐地域の鉱工業の歩みを物語る近代化産業遺産群」に認定されている。
温川銅山(ぬるかわどうざん)
青森県平川市にあった鉱山で、金・銀・銅・鉛・亜鉛など、様々な資源が採掘されていました。
温川銅山の歴史(1987年採掘開始~1994年閉山)
日本国内の閉山ラッシュが多い時代で、輸入資源に依存することを回避すべく、急激な円高の中で資源を獲得するために誕生するが、当時の様々な事情により、短い期間で閉山となっています。
この近くには鉛山(秋田県鹿角郡小坂町)もあり、現在では十和田湖を眺める観光スポットとして有名です。
日本最後の鉱山
温川鉱山は、花岡鉱山と同じく1994年3月に閉山した日本最後の銅山です。
花岡銅山(ひたちどうざん)
1885年に秋田県北秋田郡花岡村で発見された。主要な鉱石は、黒鉱と呼ばれる閃亜鉛鉱や方鉛鉱であり、良質な鉱石からは亜鉛や鉛などのほか金、銀などの貴金属も採取していた。日本の金属鉱山としては珍しく、大規模な露天掘りが行なわれていた。
花岡銅山の歴史(1885年採掘開始~1994年閉山)
戦後は松峰鉱山、深沢鉱山(1969年鉱床発見)、餌釣鉱山(1975年鉱床発見)など支山の開発に注力し、人工天盤下向充填採掘法、トラックレス鉱石運搬方式など、さまざまな面で新技術を導入するなど積極的な事業を展開した。
国内屈指の鉱山として操業を続けてきたが、1994年(平成6年)に採算性の問題から採掘を終了した。
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